世界史の糸

レオナルドやエジソンにはなれないけれど

ジェネラリストでもスペシャリストでもない、一教師の試行錯誤の記録。旧ブログ名:世界史の糸から改題しました。

教材:ベトナム独立宣言

    • 独立宣言に表現された歴史的文脈
      • 『独立宣言の世界史』
 デイヴィッド・アーミテイジ著『独立宣言の世界史』において、以下の点が詳しく論じられている。すなわち①アメリカ独立宣言の思想的内容②アメリカ独立宣言の影響である。もともとは環大西洋革命を教えるためにこの本を読んでいたのだが、多くの国の独立宣言が収録されておりむしろそちらに目が向いた。同署では②の文脈の中で、いくつかの国の独立宣言が取り上げられるが、高校世界史の内容としてはベトナムの独立宣言が扱いやすいのではないかと思う。
 
      • フランス、日本による支配
 ベトナムの独立宣言を一読すればわかるように、ベトナムを植民地支配していたフランスと日本に対する非難が述べられる。このあたりの事情は高校世界史でも扱うところだから、高校生でも植民地支配を受けていたベトナムの想いを読み取るだろう。
 
      • 普遍的な概念としての「自由」「独立」と、ベトナムの歴史的独立心
 またこの独立宣言に述べられているように、ベトナムはフランスの人権宣言を引きながら論を展開している。先行する宣言を意識的に活用していることに着目させることが必要であろう。すなわち(アメリカ独立宣言の影響を受けた)フランス人権宣言を、「自由」「平等」といった普遍的概念を主張するものとして用いていること、それによって自身の独立の正統性を主張(アメリカ独立宣言自体にも言及されている)していることを理解させたい。
 また別の歴史的観点から、ベトナムと中国との歴史、すなわちベトナムが常に中国からの一定の独立性を求め続けたことを想起させるのも面白いかもしれない。もしくはベトナムアメリカの歴史という選択肢もある。いずれもベトナムの独立心の高さが強調されるが、このベトナム独立宣言もその例証の一つとして読み解くことも可能だろう。
 
 
     資料  ベトナム独立宣言(1945年9月)
 
  すべて人間は平等につくられている。すべて人間はその創造主によって、誰にも譲ることのできない一定の権利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれる。この不滅の声明は、一七七六年にアメリカ連合諸邦の独立宣言の中でなされた。このことは広く解釈すると、次のようになる。地球上の全人民は生まれながらに平等であり、全人民は生きる権利、幸福になる権利、自由である権利を持つ。
 一七八九年になされたフランス革命の「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」は次のように述べている。「すべての人間は自由で、平等な権利を持つ者として生まれ、常に自由であらねばならず、平等な権利を持たねばならない」。
 これらのことは否定できない真理である。しかるに、80年以上にわたってフランスの帝国主義者は、自由・平等・友愛の原理を裏切り、わが父祖の地を侵略し、わが同胞市民を抑圧してきた。彼らは、人道と正義の理念に反する行動をしてきた。
政治の分野では、彼らはわが人民からすべての民主的自由を奪った。
 彼らは人道に反する法律を強制した。…彼らは学校よりも多くの監獄を建設した。彼らはわが愛国者を容赦なく殺戮した。…彼らは、経済の分野では、彼らは我々を徹底的に搾取し尽くし、…我々から水田、鉱山、森林、そして原料を略奪した。…彼らは無数の不当な租税を捏造し、わが人民を、とりわけ農民を貧困の極みへと追い込んだ…
 日本のファシストが、連合国との闘いで新しい基地を設けるためにインドシナの地に侵入した1940年秋、フランスの帝国主義者は、ひざまずいて屈服し、わが国を彼らに引き渡した。この時以来、わが人民は、フランス人と日本人の二重の軛(くびき)に隷属させられた。我々の苦難と悲惨は、いっそうひどくなった…
日本人が連合国に降伏した後、わが全人民は、民族の主権を取り戻し、ヴェトナム民主共和国を建設するために立ち上がった。
 …以上の理由から、我々臨時政府の構成員は、全ヴェトナム人民を代表して、今後、植民地的性格を有するすべての関係をフランスとの間で断ち切り、フランスがこれまでヴェトナムと調印してきたすべての国際条約を撤回し、フランス人がわが父祖の地で不法に手にしてきたすべての特権を廃止することを宣言する。…80年以上にわたってフランスの支配に勇敢に立ち向かってきた人民、ここ数年はファシストに対して連合国とともに闘ってきた人民、そのような人民は自由で独立していなければならないのである…出典:D・アーミテイジ『独立宣言の世界史』ミネルヴァ書房、2012年、248-251頁。(引用は適宜省略した。)
 

教材:啓蒙思想家の文章

教材:啓蒙思想家の文章
 
啓蒙思想のわかりやすさと教えにくさ
 啓蒙思想の扱いは悩ましい。身分的秩序の中世から、すべての人々の平等へという展開で啓蒙思想を持ち出すことが多い。しかし私の授業では、啓蒙思想の扱いは「理性を持って批判的に従来の秩序・概念を~」といった紋切り型の説明にとどまっていた。これで生徒は啓蒙思想の歴史的意義を汲み取ることができるだろうか?
 また啓蒙思想フランス革命の関連はよく指摘されるところだが、ではそれは具体的にはどのような形で現れるのか?教科書のフランス革命史は連続する事件に焦点が当てられ、思想的背景がわかりにくくなっている。教科書で扱われる啓蒙思想は、その歴史的意義をうまく伝えられていないのではないか。
 
史料で実証する難しさ
 「理性を持って従来の秩序・概念を批判的に検討する」。これについても、教科書には思想家たちの具体的な思想や作品が掲載されていないため、こちらで準備する必要がある。だが適当な史料を見つけられずにいた。自分の読書不足もあるが、授業で啓蒙思想に割く時間をあまりとれないため、コンパクトかつ分かりやすい史料を探していた。
 また啓蒙思想の限界についても、やはり見ておく必要がある。啓蒙思想による「批判的」な検討や、「平等」の恩恵を受けることができた人々の範囲はいかなるものであったのか。単純に啓蒙思想賛美に陥るのは避けたい。以上を踏まえて史料を探していたところ、以下のような史料を見つけた。
 
ヴォルテールの文と活用の方法
『だれでも、自分は他の人々と平等なんだ、と自分だけでは考える権利をもっている。しかし、だからといって、枢機卿の料理人が、主人である枢機卿に私の食事の仕度をせよ、と命令していいということにはならない。しかし料理人が次のように言うのはさしつかえない。「私は主人と同じように人間だ。私は彼と同じように涙を流して生まれてきた。そして彼と同じように苦悩のうちに死んでゆくだろう、彼と同じ葬式をしてもらって、である。彼も私も同じような動物としての行動をしている。トルコ人がローマを占領する、というようなことが起こったあかつきには、そして私が枢機卿となり、私の主人がコックとなったあかつきには、私は彼を私の召使にするだろう」 この言葉は完全に理性的であり、正当である… ヴォルテール『哲学辞典』(一七六四、改訂一七七一)』
 
 本史料では、従来の身分秩序に収まらない「万人の平等」に近い概念が示されている。一方でその概念も一定の留保がつけられており、我々の親しんでいる現代的な「平等」とは少々異なる印象を受ける。このような差異から生じる小さな疑問は、生徒の関心をひいたり授業の展開に利用できるのではないかと思う。
 この史料からは上記のように啓蒙思想の限界も示されており、ここからフランス革命の急進性との対比をさせることができれば面白いと思うのだが、さてそれを実際に授業でどう実践するか。
 一応、現時点では本史料とアメリカ独立宣言を対比させ、類似していると思う個所を抜き出させることで啓蒙思想からアメリカ独立宣言への影響を実感させる、という授業には取り組んだ。比較したうえで該当部を引用させる作業は汎用性がある手法である。ほかに何か活用方法はないだろうか。

紹介:Counsell,C., History and Literacy in Y7 文学作品は歴史教育にいかに活用されるべきか、イギリスの事例

 
    • Christine Counsell, History and Literacy in Y7: Building the Lesson around the Text ( John Murray, 2004)
 文学作品の活用について、イギリスにおける歴史教育の文献を見つけた。著者はイギリス中等学校での教員経験を持ち、歴史教育を通じたリテラシ―能力の育成が専門の一つらしく、この文献でもその知見が発揮されている。本文献での実践は特に文学作品に限定されているわけではないのだが、文学作品の授業への活用が大きな比重を占めている実践がいくつか収録されているため、ざっと目を通してみたところ、なかなか面白い内容だった。細かな実践方法・方法論を記すと長くなるため、簡潔に感想を記す。
 
    • 扱っている作品
 この文献で扱われている文学作品は、
ホラティウス『風刺詩』
Crossley-Holland, K., Arthur: The Seeing Stone(Orion Publishing Group,2000)(邦訳は『少年騎士アーサーの冒険』)
アイリーン・パウア『中世の女性たち』である。
 
    • テキストの読解に焦点を当てた授業
 一読して特徴的であるのは、いかに作品を味わうか、著者の文体を解析したり、自ら文章を作るなど、生徒が取り組む作業が幅広いことである。これらは日本ではどちらかといえば国語などの教科が扱う範囲かもしれない。歴史教育においてここまで資料・史料の文言にこだわった実践は、私はあまり知らない。だが、歴史認識の形成も含めた学びの多くが言語を通じて行われるということを念頭におけば、世界史といえどもリテラシー育成の観点を欠いた指導で良しとすることはできないであろう。著者の実践はそうしたリテラシー指導の観点から、多くの参考になる点があるのではないかと思う。
 
 これまで私は資料・史料問題を、主に実証主義的観点から作成してきた。すなわち教科書における知識が、問題を解くことを通じて実証されることを念頭に問題を作成してきた。しかし著者の実践を読んで、よりメタ分析の方向に指導をシフトすることの必要性を感じた。アメリカの歴史教育実践などでも顕著であるが、資料・史料の文言読み解きにとどまらず、資料・史料作成の意図や多様な読み解き観点の設定などが通常の授業の中で実践されている。日本の世界史教育でも、こうした指導方法を検討してみるべきだろう。
 この文献の詳しい内容に関しては、今後機会があればさらに詳しく紹介していきたい。また自分でも著者の実践を参考にしながら、文学作品による授業の体系化に挑戦していきたい。
 
 

教材:イギリス帝国主義を批判した絵地図

 ヨーロッパでは多くの絵地図が作成されている。特に近代に入るとその数が増え、ヨーロッパの政治状況を表した興味深い地図がたくさんあり、これらは授業内容とも多く重なるところがあるため、活用しやすいだろう。
 例えば次の地図などはイギリスの帝国主義を批判したイタリア発行の地図である。

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 イギリスを表す蛇らしき怪物の体が地球を覆っているが、体が触れている部分が当時のイギリスの支配地域を表している。インド、中国、オーストラリア、南アフリカ、カナダなど、イギリスの進出が世界中でどのように行われているのかを総復習するのに好都合な資料である。もちろん、どれか特定の地域だけを取り上げて問題を作るのもよい。
 インターネットで検索しても多く見つかるが、以下の電子書籍のなかに多くの地図作品が収録されており便利である。
  •   渋谷獏、『戦時下のポスター』、TAPIRUS、2020年

授業に関する近況、雑感9 世界史授業への文学作品の活用について:追記

    • 世界史授業への文学作品の活用について:追記
 世界史授業の文学作品の活用について、以前記事を書いた*が、新しい参考文献を見つけたので追記する。
日下部公昭,作業を取り入れた授業 読書活動を時間内に取り入れた授業の試み、歴史と地理 (706)、2017年、16-25頁。
 また英語圏で同じような関心のもと実践がないか少し検索してみたところ、やはり結構な数がヒットした。これらも今後読み込んでいき、必要に応じて記事を書いていきたい。
 
    • 問題点は解消されていない
 日下部による実践報告は、私の関心や考え方とかなり似通っているのではないかと思われる。先行する実践を踏まえ、その問題点を、文学作品の通読を前提としていること、また文学活用の授業に2~3時間が割り当てられることも多く授業実践に時間がかかりすぎることに求めている。そのため私の実践では、1時間の授業で完結するためにドーデの短編『最後の授業』を用いて、特に事前の予習(つまり文学作品を事前に通読してくること)も課さずに授業を行っている。こうした姿勢は筆者と共通するものである。その一方で、事例がドーデの作品のみにとどまっていることもあり、文学作品を用いた授業やその活動内容のある程度の一般化は行われているとはいいがたい。私の学習観では、反復なしに身に着けることは困難であるとの立場に立つため、単発の授業で終わってしまうのではなく、日々の授業の中で繰り返し文学作品を用いた実践をしていきたいと考えている。そのためには、ある程度の方法論の定式化は必要であろう。
 定式化に際しては、授業における文学作品の活用を妨げる諸要素と共通する問題点への解決が必要である。以前の記事でも言及したように、1.読むのに時間がかかる:宿題にするには負担が大きいし読んでこない生徒への対応の問題が生じる。かといって授業時間中に読むとなると時間がない。2.準備及び配布が困難:文学作品を通読することを前提とすると、生徒の手元に現物が届くようにしなければならないが、生徒に購入させるには絶版でない本にしなければならないうえに、頻繁に購入させるのは現実的でない。かといってコピーの配布は量的にも非現実的である。教員の準備も間に合わないだろう。また昨今の多忙さを考えれば、長編作品を読み通して授業準備を行うのは、研究授業のように単発で行うならまだしも、できるだけ頻繁に…というのは不可能に近い。
 
    • 短編小説の活用と活用可能作品情報の共有
 こうした問題を解決するのに、日下部実践にあるような「短編」の活用は現実的な解決案である。『最後の授業』ほど短い短編はなかなか無いかもしれないが、短編であれば必要箇所を探すのも、プリントを準備するのも長編に比べれば楽であろう。こうした授業に活用しやすい作品を、教員間で情報共有したいし、していかねばならないのではないかと思う。どこかにそうした作品一覧があってもいいような気がするが、管見の限り見つからない。
 そしてそうした作品をいかに授業で用いたか、そうした実践事例を集積し、方法論の定式化を図る。実際に授業を行う際には当然作品や学習箇所に応じてアレンジをすべきであるが、大まかに「このように用いれば文学作品を用いた授業が成立する」という方法があれば、教員としても取り組みやすい。
 今後はこのブログでも具体的な作品と活用事例に関して記録を残すつもりである。また是非、文学作品を用いた授業の事例に関して、情報をお持ちの方はお知らせ願いたい。
 

紹介:Structural skills:where are the paragraphs?歴史教育で行う文章指導

以前紹介したタールの歴史授業アイデア集の、各章の興味深い部分をピックアップしていく。
 
  • Tarr, R., A History Teaching Toolbox: Practical Classroom Strategies( Createspace Independent Pub,2016)
  • Tarr, R., A History Teaching Toolbox: Volume Two: Even More Practical Classroom Strategies( Createspace Independent Pub,2018)
 
第1巻 第9章 Essay Skills
 
第9章からは「文章校正の技術:どこからパラグラフははじまるか?」を取り上げる。
 
手順
 エッセイや資料文を、段落分けを一切無くした状態で掲載したプリントを配布する。
 生徒は文章を読みつつ、元の文章がいかなる段落分けであったかを考えて段落分けする。
 
 
 一見すると現代文の内容かとも思えるが、この作業にはいくつも利点が思い浮かぶ。
1:生徒が自然とエッセイ、資料文を能動的に読み込む。
2:生徒が自分でエッセイを書くときに、パラグラフ・ライティングの技法を応用できる。
 エッセイ、資料文が長文になると、どこに着目するのかがわからなくなる生徒が増える。日本の読解に関する教育は基本的に短い量を深く読み込んでいくものだから(近年、英語でも国語でも大量の情報処理という傾向にシフトしているようだが)、世界史の史料でも長文になると読めないのだろう。読むというより見ている、眺めているだけということになりかねないが、この方法ならパラグラフに分割するという意識の元、能動的に読み込むことができる。
 また生徒が論述を行う際にも、パラグラフを意識した記述にすることは重要である。大学におけるレポートは当然として、文章一般に適用できる普遍的な技術であることからも、高校生のうちから練習しておく必要性がある。こうした活動を繰り返していけば、実際に生徒に文章を書かせたときにかなり質の向上が見込めるのではないか。
 近年のOCR技術の発達により、わざわざタイピングをせずとも長文資料を比較的短時間で準備できるようになった。長文を書かせることは教員によるフォロー・チェックの手間や授業時間が足りないことを考えればなかなか難しいかもしれないが、この活動のように読むことにフォーカスを当てたものであれば、比較的授業に組み込みやすい。できれば定期的に授業に組み込みたいものである。
 
 

紹介:Arcade Game Generator 学びにゲーム要素を取り入れる

以前紹介したタールの歴史授業アイデア集の、各章の興味深い部分をピックアップしていく。
 
  • Tarr, R., A History Teaching Toolbox: Practical Classroom Strategies( Createspace Independent Pub,2016)
  • Tarr, R., A History Teaching Toolbox: Volume Two: Even More Practical Classroom Strategies( Createspace Independent Pub,2018)
 
第1巻 第7章 Tests and revision
 
 第7章からは、アーケードゲームジェネレイターを取り上げる。
 以下のサイトから、一問一答形式の問題を、アーケードゲームに変換することができる。
 
 
 昨今、「ゲーミフィケーション」の手法が各業界に取り入れられ始めており、教育にも少しずつ実践が始まっているようである。従来から、地理や公民において、ゲーム的要素を取り入れた授業の開発は進められてきた。しかし私としては、それらのゲームは高度なゲーム内容や道具の使用ゆえに柔軟性に乏しく、他の単元への応用が困難なため、自分が実践するのはためらわれてきた。結局、私の教育実践においては、トランプやすごろくなどの、単純だが応用のしやすい媒体を利用したものに限られていた(人名・条約名・都市名・文学作品名などで作られた神経衰弱、マルコ=ポーロを題材としたすごろくなど。)。しかしこれらも「飛び道具」的な扱いであり、生徒にとっては時折実践される楽しい授業、という程度にしか受け取られていないと思われる。できればより継続性のある形式でのゲーム要素の導入ができないものか、と考えていた。ここでいう継続性とは、教科書教授内容の広範囲で教材が作成できること、また毎時間の授業ないし家庭学習などにおいて、頻繁に取り組むことができることを指す。
 本書で取り上げられているアーケードゲームジェネレイターは、そうした継続性を備えるものとして、また単純な暗記作業に取り組みやすくするものとして、なかなかよいものではないかと思う。そもそも一問一答的な暗記が良いものだとは決して思わないが、日本の大学入試を鑑みて、また歴史に興味がない、まったく歴史の勉強に取り組む意思のない生徒に対しては、とっかかりとして悪くはないのではないかと思う。どのような手段であれ、歴史に(そして学ぶことに)積極的に向き合う姿勢を促すものであれば、ぜひとも取り入れたいと思う。
 しかしながらこのアーケードゲームジェネレイター、基本的にはゲームオーバーからのコンテニューの際に、こちらが作成した問題をクリアするとコンテニューができる、という形式のゲームが多い。そのため学習効率の悪さと、ハイスコア獲得に熱心な生徒以外はあまり取り組まないだろう。もう少しゲームプレイ自体に学習要素を取り入れたものであればなおよかったのだが。
 学習における初動の動機づけだけでなく、日々の学びの過程にゲーミフィケーションの手法を応用できないか、という点は私の今後の課題の一つである。ゲーミフィケーションと仰々しく言えるような段階ではないが、現在毎日の授業においてゲーミフィケーションの要素を取り入れた実践を模索中であり、成果がでればまた報告したい。