世界史の糸

レオナルドやエジソンにはなれないけれど

ジェネラリストでもスペシャリストでもない、一教師の試行錯誤の記録。旧ブログ名:世界史の糸から改題しました。

授業に関する近況、雑感7 資料問題の作成

 今年は応用問題と称して、資料問題をできるだけ毎時間行っているが、文章量はかなりのものになる(このブログでも掲載している、各授業実践を参照)。読解力の低下や活字離れが叫ばれる中、世界史の基礎知識を確認しつつ、文章を読むことにも慣れてほしいと一挙両得を狙ったものである。中にはB4用紙、9ポイントの文字で両面にビッシリ、なんていうプリントもある。実はこれらの資料問題の実践、最初はかなり不安であった。
 本を一冊読みとおした経験がないという生徒が普通にいる。現代文の授業においても、量を読むというよりかは、精読を行っている。そうした中で、毎回約20分程度の限られた時間の中で、果たして生徒は読めるのか(そして問題に答えられるのか)。
 結果として、こちらの想像以上に生徒は文章を読む。また、読もうとする。もちろん生徒によっては時間内に終わらない場合もあるが、基本的に毎回応用問題の時間を取ることによって、前の時間に終わらなかった問題も、次の時間に持ってくるようになった。生徒の文章を読んでいる様子は、こういっては失礼だが意外なほどに集中していることがうかがえる。
 活字離れの生徒たちが、なぜ(普通は興味などない)歴史の文章を積極的に読んでいるのか。その要因の一つは、資料問題の文章に設問を設けたこと、せき教員がチェックするというシステムを採用したことにあると思う。よく社会科の教員がやってしまう「資料の○○を見るとわかる通り~」「資料○○はあとで読んでおきなさい」と生徒に丸投げしてしまうのでは、生徒は読まない。毎回、資料問題として掲載する文章に自分で設問を設けるのは骨が折れるが、自分の読解も深まっていることが自覚でき、これは思わぬ副次効果であった。
 副次効果はまだある。よく教員が人物や出来事のエピソードを口頭で生徒に伝えるが、私はとにかく話すのがヘタであるため、これがうまくいかない。生徒が集中力を切らしたり、夢の世界に旅立ったりするはめに陥るため無くしたいが、そうすると授業はひたすら暗記項目を並べるようなものになりかねない。しかしエピソードを資料問題に組み込むことによって、口頭で下手くそな説明をしなくとも生徒に伝えることが可能になった(しかもこれなら眠る生徒もいない)。資料問題に伝えたいエピソードを盛り込んでいるため、講義部分はスピーディーに進めることができる。
 生徒が積極的に資料を読むもう一つの要因は、読むことによって、名前だけしか登場してこなかった人物や概念が、より具体的な像を伴ってイメージできるようになる、知的な楽しみを実感しているからであろう。教科書だけではとても知ることのできない情報が、資料問題には多く含まれている。生徒の知的好奇心を満たしてくれているのではないかと推測している。
 逐一チェックのためにプリントを持ってこさせる試みも、最初はとにかく大変であったが、今ではメリットのほうを強く感じている。資料の読み方について、生徒が見落としているところを一緒に確認したり、その場で助言を行うことができる。答えを書いたプリントをリアルタイムで教員と生徒が一緒に見ているからこそできることであり、机間巡視ではこれは難しい。「終わったら見せに来なさい」なんて、なんだか小学校みたいだと思っていたが、生徒とのコミュニケーションができる点も含めて、とても好感触である。ただ私が担当している授業の人数は最大でも30人程度なので、40人になるとさばききれないかもしれない。
 これまで作成した資料問題の出典を振り返ると、私の場合は基本的には新書や世界史の概説書、および伝記を用いることが多い。もともと世界史は扱う範囲が広すぎて、専門外になると教師といえど生徒の知識量(つまり教科書に書いてある内容)に毛が生えたくらいなんてこともあり得る。だから、教師が読んで面白いと思った文は、きっと生徒にとっても面白い。先日1学期を終えてアンケートを取ってみたところ、意外に多くの生徒がこの資料問題を読むことに関して好反応を示していたのはうれしかった。
 また、教員間でもっと資料の共有が進めばいいと常々思っている。先ほど記したように、専門外になると、どんな資料があるのかといった点にまではとても手が回らない。最近は指導案をまとめて公開しているサイトも出てきているが、個人的にはむしろ授業で用いた資料やワークシートをどんどん載せてほしいと思う。他人の作った授業を1から10までまねるということはあまりないし、それなら資料を使って自分なりに授業を構成しなおすほうが現実的であると思うからである。このブログも、そんな風潮を後押しする一助になればと考えている。