世界史の糸

レオナルドやエジソンにはなれないけれど

ジェネラリストでもスペシャリストでもない、一教師の試行錯誤の記録。旧ブログ名:世界史の糸から改題しました。

授業に関する近況と雑感

 
 授業に関する近況、雑感。
 最近紹介しているEllis, E. G., Esler, A., World History Connections to Today Teacher's Editionに触発されて、資料問題を作って実践してきたが、いくつかの課題が生じてきている。
 まず資料問題をやる時間の確保。そして資料問題の取り組みをどこまで生徒に求めるか。最後に、資料問題の取り組みへの評価。
 いずれの課題も相互に密接に関連しており、まだ五里霧中状態だが、ひとまず二つ目の課題に関していま感じていることを記しておく。
資料問題の取り組みをどこまで生徒に求めるか。私の授業では資料問題は「応用問題」と称して、穴埋めプリントとは別のプリントで配布している。B4一枚ていどのものをほぼ毎時間、穴埋めプリント終了後に残った時間で生徒自身に解かせる、問題演習の形をとっている。新書などの二次資料だけでなく一次資料からも結構な引用をして問題を作成することも多く、本来は教師が講義・説明をすべきかと思う。ただ穴埋めプリントの説明でさえ集中力が続かず夢の世界へ旅立つ生徒に、長時間一次資料などの説明など私の力量では不可能である。また模試などでも初見の資料に独力で当たらねばならないからというのを免罪符として、問題演習の形で資料問題に取り組ませている。ただし本当に難しいものに関しては、できるだけ穴埋めプリントの説明とリンクさせることを意識している。例えば穴埋めプリントで専門用語〇〇を解説するときに、応用問題の資料□は専門用語〇〇に関するものである、などと説明しておく。生徒は応用問題に取り組むとき、少なくともこの資料が何についての記述か程度は予備知識がある状態にしておくのである。これで(教師の話をメモしている生徒は)少しはハードルが下がる。
 だが、既習事項を活用して資料を読むという作業は、生徒にとっては相当高い難易度であるらしい。いわゆる「できる」生徒は謎解きをしているように結構楽しく進めていくのだが、穴埋めプリントの段階で躓いてしまっている生徒には応用問題は意味不明の文字の羅列にしか見えないようだ。授業クラス内の両極分解、これが資料問題の取り組みをどこまで生徒に求めるか、という課題につながる。
 当初はアクティブラーニングへの期待を持っていた。生徒同士の教えあいにより、最低限の教師の介入で学びが深まることを夢想していたが、現実はそうはならなかった。私の授業では1:生徒相互の学びあいへの理解・習慣ができていない 2:応用問題の取り組みは穴埋めプリント終了後の20~25分程度 といったアクティブラーニング成立を阻害する要因があるためであるが、これらの点に関していろいろ試行錯誤をしつつもまだ解決策はみえていない。
 また最近はより根本的なアクティブラーニングへの疑問も生じている。巷のアクティブラーニングに関する本は、クラス全体の目標達成、すなわち生徒全員が単一の目標を達成することを強調している。そのために生徒同士で協調することを力説する、というか強制する。ここには問題点がいくつかある。仮に自発的な学びが良いものだという価値観に立つならば、アクティブラーニングによる協力の「強制」は自発的な学びと矛盾することはないのか?能力も学ぶ意思もあまりに異なる生徒たちが一つのクラスに混在する現状で、単一の目標達成を求めることは可能なのか(これも学びの「強制」といえるのではないか)?
 このように、最近はアクティブラーニングの「強制」という面が非常に目につき、悩んでいる(一斉授業も「強制」であることはもちろん自覚しているが)。問題演習の形をとっている資料問題に関してくらいは、もっと個々人に合わせた授業形態をとることができないだろうか。
 資料問題を作る際に、レベル別の問題という形式を導入すべきかもしれない。現在の私の資料問題の形式は1:穴埋め 2:各資料の時代準並び替え 3:各資料が何についての資料か 4:資料に関連する論述 といったものが主となっているが、例えば1~3までは全員必須とし、4はさらに学びを進めたい生徒向けにする、など。
 ただしそうすると4に取り組む生徒がほとんどいないといったことになりかねない。現勤務校は世界史の論述があるような大学に進学する生徒は多くないし、そもそも「やらなくていいならやらない」という姿勢の生徒が多数である。それに教員としてはむしろ4のような問題こそ生徒に取り組んでほしいのであり、やらなくてもいいとはなかなか言いたくないのが本音である。
 試行錯誤は続く。