世界史の糸

レオナルドやエジソンにはなれないけれど

ジェネラリストでもスペシャリストでもない、一教師の試行錯誤の記録。旧ブログ名:世界史の糸から改題しました。

「資料の活用」の悩ましさ

 平成30年に告示された高等学校学習指導要領では、資料の活用が強調されている。従来の学習指導要領でも資料の活用は言及されていたものの、新学習指導要領では歴史総合・世界史探求ともに「2 内容」の各項目において、資料の活用が謳われるようになった。新学習指導要領では、資料の種類として文書資料だけでなく遺物や図像にも言及されており、これ自体は特に目新しいものではない。しかし「複数の資料の関係や異同に着目して、資料から読み取った情報の意味や意義、特色などを考察し、表現する」「資料から情報を読み取ったりまとめたりする技能を身に付けること」といった、踏み込んだ表現がなされていることが注目される*1。これからはより資料を多く用いて授業を行うことが世界史教員には求められていくであろう。

  だが実際の授業の場で、資料はどれほど用いられているだろうか。大学進学を目指すような学校の場合、常に進度の問題を意識せざるを得ない。教科書の最後まで終わらずに年度の授業が終わってしまうような話はよくされるし、実際に教科書の事項を細かく説明していけば、現行の標準履修単位ではまず時間が足りなくなる。そのような状況で、時間のかかる資料読解の活動をいれるのは躊躇せざるを得ない教員も多いのではないか(少なくとも私はそうである)。それに加え、日本史に比べ広く浅くという性質の濃い世界史では、特に文書資料の中に見知らぬ専門用語や固有名詞が入ってくることが多く、これがまた生徒の(そして教師の)資料へのとっつきにくさを強めてしまう。地域や時代によっては適切な資料がなかなか見つからないことも多い。

 それでも、多くの学校で資料集などを購入させているであろうから、教員が自前で用意しなくてもある程度の量の資料は確保されている。問題はそれらの資料がどれだけ授業内容と連関して用いられているか、である。具体的には、いかなる文脈において、いかなる種類の資料を、いかなる形で生徒に提示するか。自戒を込める意味で記せば、
  • とかく扱いやすそうな資料を、確固たる目的なしになんとなく、イメージ喚起や視覚化する程度の気持ちで「見てみましょう(見なさい)」と提示していないか
  • 資料集によくある年表や整理表を、「これを見ながら説明を聞きなさい」といった形で授業を行っていないか
授業を振り返ってみる必要があるのではないだろうか(このやり方自体が悪いわけではない。しかしこのやり方では資料の活用は「教師」が行っているのみであり、「生徒」は全く受動的な立場に置かれてしまわないだろうか)。生徒がいかに主体的に資料を活用して学ぶのか、またそのために教師がいかに資料を準備し、授業で用いるのか。このことに関して、これまであまり研究は深められていないし、実践報告も多くはないように感じている。少なくとも資料活用に関する方法論の確立はなされていないようである。
 
 以上が私の問題意識のひとつである。またさらに、
  • 日々の読書を教材研究につなげるために、いわゆる一次史料だけでなく、小説や新書などから資料を作る方法論がないか。
  • 授業で用いることが定められている教科書において、資料はいかなる種類のものがどのような割合で掲載されているのか。資料活用の観点から取捨選択がされているのか。本文記述との関連性はどうか。
などの問題意識がある。
 上記のように問題意識は多岐にわたるが、いずれにせよ資料を巡る問題であることは共通している。これからブログ記事のテーマの一つに資料活用に関する日々の実践を記していきたいと思う。
 読者の皆さんもぜひ自らの実践を教えていただけるとありがたいです。

*1:文部科学省、『高等学校学習指導要領(平成 30 年告示)解説 地理歴史編』、p. 138, 290など。